アブド・ソイセノ副首相の素顔

 先日、私たちはドゴロニデ首相をピックアップした。

 今回はその片腕であるアブド・ソイセノ副首相に焦点を当ててみようと思う。

 ドゴロニデ首相は中々に波乱万丈で壮絶な半生を送っているが、副首相もそれに負けないレベルでの強烈な半生を送っている。何せ本人の口の悪さは、世界を驚かせた。アクの強い人間だ。

 今回は首相の時の様に、スケジュールの関係で対面インタビューは出来なかったが、ふくしゅしょうは副首相は副首相でかなり強烈な半生を送っている。

 副首相は首相と違い、ジャワ島の古都ジョグジャカルタで生まれた。ごく一般的な大工の家庭で生まれたのだが、両親は何も教えてないにも関わらず4歳までに四則演算を修得したという。6歳で連立方程式を応用まで完璧に修得した。

 ここまで見るとただの天才児だが、彼は猟奇的なほど絵が下手で、また字や言葉も覚えなかった為、両親は何度も精神病院に連れて行き、その度に発達障害の診断が下されたという。彼自身はその時のことは覚えていないらしい。

 10歳になると一気に文字と言葉を覚えたが、相変わらず絵は精神病患者を疑うほどに下手だったという。また、この頃から社会性を持ち始め、今まで内気で人とほとんど喋っていなかったのに、急に知らない人と冗談も交えて舌を巻きながら喋るほど饒舌になったという。両親に取材した所、「恐怖でしかなかった」と答えていた。

11歳の時の美術の模写の作品 “魚”。本人曰く、図工の時間を3時間使って魚の写真を全力で模写したらしい。当時の担任によるとその殆どの時間は左下の緑の部分を塗りつぶす為に費やされていたという。


 そうして饒舌になった彼は中学校まで不良グループの頂点に立ち続けた。成績の方はと言うと、首相とは対照的に数学、理科、社会が満点だったが、国語、外国語、古典、芸術は欠点付近を安定して上下していたという。アラブ系の血が入る彼は顔も整っており、高身長な為、隣町から女学生が中学校や高校にやって来る等かなりのモテ男だったという。

 その後、親の仕事の都合で一時的にパレンバンの祖父母の家に居候し、パレンバンの高校に入学。そこでドゴロニデ首相と弟のラッタと出会った。

 同じクラスになった時には成績の欠点を互いに補い合いながらカンニングを行い、一緒に生徒指導に連れていかれるほどの仲になったという。首相と一緒にやんちゃを繰り返していたという。本人曰く「あの頃はクソガキでは済まされない。それとゲロとのチャンポンみたいだった。ゲログソガキだ。あいつ(ドゴロニデ)もだがな。」と言っていた。本当はこれ以上言っていたが、ここでは載せられない。

 高校3年では、ドゴロニデ・ラッタ兄弟と共にガジャ・マダ大学に進学する為に血を吐くような努力をしてサボり続けてきた社会以外の文系科目を平均レベルに克服。

 そして見事ガジャ・マダ大学の理学部化学科に合格した。

 大学時代はラッパーとして遊び続けていたが、持ち前の頭脳で各試験や論文を余裕で突破した。その後大学院に進学し、化学の研究を続け博士号を取得。大学院で化学者としての道を歩み始めたが、その後ラッパーに憧れて、論文一個のみを発表し離職した。因みにその論文では新物質を発見し、彼はそれにアブド酸と名付けた。かなりの大発見だが、このアブド酸、何の役にも立たないのだという。これもまた彼らしい。

 その後ラッパーとしてディープな者達の間で彼は名を馳せていた。当時のラッパーとしての名前は“I KILL YOU”。

 旧友でありドゴロニデの弟ラッタが自殺し、ドゴロニデ氏自身が政治の道に入ってから数年経った。ある日、たまたまニュースで「ドゴロニデがパレンバン政界に飛び込んでそこそこ活躍している」という情報を仕入れた副首相は、ドゴロニデに手紙を送り、自らもパレンバンに移住し、市民権を取り議会議員に立候補。10歳の時に突然目覚めた饒舌さと、常に韻を踏み続けながら少々汚い言葉で市民のハートに訴えるラッパー精神で、実に気持ちのいい演説を行い、その強烈なキャラで圧倒的票数で議席を獲得した。

 当時のドゴロニデ市長の最側近として、彼に国政進出の進言をした。その後ともに選挙カーに乗り、長いドゴロニデ政権を支え続けている。


 いかがだっただろうか。

 悲しいエピソードは無いが、幼少期から数学的才能を開花させ、精神病を疑われ、最難関大学に合格し、化学者としての道を歩み、ラッパーになって、市議会議員となり、副首相になった。

 輪廻を一周回ったような数奇で波乱万丈の半生である。

 次は何になるのだろうか。期待を膨らます。彼はドゴロニデ首相とは正反対の天才なのだ。



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